はじめに
小説Rascalは1963年に出版されて以来、50年経った現在2014年でも地元アメリカではもちろん、世界中で愛読されている作品だ。映画やアニメに映像化されるほどの人気である。物語の舞台は1918年アメリカ、ウィスコンシン州、ブレールスフォード・ジャンクションとその周辺。ブレールスフォード・ジャンクションはノースがその町に付けた仮の名前であり、実際彼が住んでいた所はエジャトンという。この物語は自伝小説であるが、町の他にも違う名前を使っている部分があり、それはノースのRascalを書くうえでの気遣いらしい⁽¹⁾。あとは事実に基づいており、スターリングの相棒ラスカルと過ごした1年間が魅力的に描かれている。受けた数々の賞も物語るように⁽²⁾、Rascalは優れた作品であるとわかるが、何故著者スターリング・ノースは自分の思い出を1冊の本にしようとしたのだろうか。きっかけを探っていきたい。そして、ノースが読者に伝えようとしたメッセージを見つけてみよう。今回はノースが自伝小説を書いた点とラスカルに物語の焦点を合わせた点から分析していく。
第1章 突然自伝小説を書くことにした理由
スターリング・ノースという作家は、主にフィクションの小説またはアメリカ史における偉人の伝記を書いていた人物である。そんな彼が急に自身の話を本にして出版しようと思ったのは何故だろうか。そして、何故1963年に書いたのか、1918年という時期を選んで書いたのはどうしてなのか、これらの疑問を一つずつ解いていこう。
まずノースがどのような仕事に就いていたのかを述べていく。大学進学後、エジャトンからシカゴに移ったノースは、学費を自分で稼ごうといくつかの仕事をした。15歳の時にかかったポリオのせいで足が不自由なため、主に事務作業をしていたが、詩や短編を売って稼いでもいた。幼い頃から文学に親しんでいたノースは、高校の国語教師マーガレット・スタッフォードとの出会いのおかげで書くことの楽しみを学び、大学生の時には作家志望になっていた。学内で雑誌の編集やミュージカルの台本を書くなどの活動もしており、物を書く経験を積んでいった。1929年2月に初めて書いた本The Pedro Gorinoが出版される。本の成功で自信のついたスターリングは大学を中退し、同年6月、シカゴ・デイリー・ニュースの新聞記者になった。頼まれたらどんな記事でも書く、努力と才能を持ち合わせたこの若い記者は早々に出世していき、1932年、デイリー・ニュース社の文芸セクション編集長に任命される。新しい作家の発掘や本の書評を書くことが仕事の内容だった。そして2年後の1934年、Plowing on Sundayを出版した。Rascalと同じく、舞台はブレールスフォード・ジャンクション。本自体は売れたが、リアリティを求めすぎ、キャラクターが町の誰を書いたものなのかがはっきりわかってしまうため、エジャトンでの評判は悪かった。1957年、子供たちが大学を卒業した後、スターリングは雑誌の仕事を辞め、ノース・スターブックスを立ち上げる。そこで伝記シリーズを次々に出版していった。伝記を書くためには膨大な資料が必要となる。事実を読者に伝えなければならないからだ。新聞記者としてのキャリアがここで活かされる。スターリングは現地取材を徹底してやり、リンカーン、ジョージ・ワシントン、エジソン、ソロー、マーク・トウェイン等の伝記を書いた。このように、ノースは普段自らを本に登場させることは無かった。何がきっかけで彼は自伝小説を書くことにしたのだろうか。それは父の死に関係があるようだ。
1962年、99歳で父ウィラードが亡くなった。これを機にノースは昔を振り返った。以前、母エリザベスの死をウィラードのせいだと考えるところがあったノースは、Rascalの中でこう語っている。
She had accepted and married my father, for better or for worse, sharing more years of poverty than of comfort. She did the worrying for the family; and it was largely worry that killed her at forty-seven. My father, who lived in an insulated dream world, took all of his losses philosophically, even the loss of my mother.(65)
苦労を全てエリザベスに任せ、ウィラードは好き勝手に生きていたとスターリングの目には映っていた。父が生きていた頃は彼の生き方を悪く思っていたのだが、父の死後ゆっくりと思い出すと、あれは父らしい生き方だったんじゃないかと思え、少しずつ許せるようになった。
Living much in the past, and never in the worrisome future, his outlook was so tranquil that he drifted pleasantly from 1862 to 1962―seven months short of a full century―with very little sense of personal or international tragedy. Curiously enough, this lifelong detachment accompanied an excellent university education, a vast store of disorganized knowledge, and a certain amount of charm.(60)
ここには悪い印象が見られない。何不自由無い幸せな人生の中でさまざまな知識を得た人だったと言っている。その知識や彼の人柄がかけがえのない思い出をつくったことは紛れもなく事実であった。ノースは記憶を遡っていき、1918年という年を思い出した。父と一緒にホイッパーウィルを探しに行った日や2週間のキャンプに行った夏、また素敵なプレゼントを用意してくれたクリスマスなどがあった年だ。それ以外にも、もっといろんなことが起きたその年がノースは特別に思われた。本にして書き残すべき1年なのだと。
ノースは本を書くときに大切にしていることがある。そのものを書き残し、伝えることだ。Rascalでスターリングは叔母のリリアンに将来作家になるべきだと言われるシーンがある。“I think she [Elizabeth] would have wanted you to be a writer. . . . And then you could put it all down. . . . You could keep it just like this forever.”(180)母親に言われているようなとてもロマンチックなこの場面で、スターリングは本を書くことの意味を知った。高校でスタッフォード先生から、「自分たちの周囲の生き物をよく観察して、明瞭に、そして簡潔に書くように」(ちば 『あいたい』 73)と指導されながら、文章の書き方を教わった。それから大人になったノースは、「アメリカの歴史を語るにはどういう方法が優れているか」について考えていた。そして、「だれかの人生のストーリーを通して語るのがベストだ」(ちば 『湖で』 102)という結論に至った。これは本を書く目的に当たる。これらを踏まえると、ノースの素晴らしい思い出は忘れ去れないように、本という形に残し、人々にこんなことがあったんだと伝えた方が良いとなる。ノースには表現できる能力があるうえ、実際に自分の身に起きた歴史的事件の経験はどんな資料よりも確実であり、アメリカ史の1ページを見せるには、1918年は打って付けだった。ということで、ノースは自分の大切な父や家族との思い出、それからその頃のアメリカの様子を残し、伝えるべく、自伝小説を書くことにしたのではないだろうか。
ちなみに1918年が世間的にどんな年だったのか、簡単にまとめておこう。スターリングがラスカルと過ごしたこの年、アメリカにとっても世界にとっても重要な年だった。第一次世界大戦(WWI)が終わり、スペイン風邪の流行があり、アメリカでの大量生産と大量消費が主流になり始めた時だ。物語の中でも重要事項となっているWWIは、スターリングの悩みの種でもあった。砂糖などの配給制や家の畑(“war garden”)のような日常の一コマからも戦時ということが読み取れる。町の様子も、戦争の影響が見られた。アメリカ軍は終戦までに約400万人の兵士をヨーロッパへ送った。内、10万人以上が戦死。そんな中で兄ハーシェルは生き残ってくれたのだが、スターリングに多大な心配をかけ、無事を祈ることしかできない歯痒く苦しい時間を長く過ごさせていた。RascalはWWIについての資料を事柄からも人の心からも集めた物なのだ。第7章で登場したスペイン風邪は、戦争と並び深刻な問題となっていた。スペイン風邪の起源がどこなのかは定かではないが、最初に大きな被害をもたらしたのは1918年3月のカンザスだった。そこからヨーロッパへ拡散。世界中で感染者が増えていき、1918年10月の1ヶ月間だけで195,000人ものアメリカ人が命を落とした。ブレールスフォード・ジャンクションには10月末から流行が見え始め、他の地域同様、この町も学校を閉鎖し、外出する人々はマスクを着用していた。スターリングもこの頃に軽い風邪をひいた。世間の状況が深刻なだけに、ウィラードも念のため息子を弟夫婦の農場で療養させることにした。当時の病院に新しい患者を受け入れる余裕は無かった。医師も看護師も多くが戦争でのサポートに向かっており、アメリカから離れていた。そんなとき、追い打ちをかけるようにスペイン風邪の流行が始まった。病院は人手不足でボランティアまで募ったが、それでも間に合わないほどだった。それに続き、棺も墓も用意しきれないために、死体が増える一方だった。そんな状態で迎えた休戦協定の日、人々は1つの災難の終わりに喜び、スペイン風邪から目を背けようとした。スターリングも回復後、パンデミックについては語っていない。WWIよりも死者を出したこの悲劇は、アメリカで675,000人の命を奪い、全世界で5000万から1億人を1年という短期間で殺していた。
また、文明や経済の発展もRascalの中で見られる。主に交通手段の変化でそれが表れている。1908年に発売されたT型フォードは、アメリカを一気に車社会へと変えていった。効率的な製造工程のおかげで、1台の値段が年々下がっていき、1914年までにアメリカ自動車市場でフォード社のシェアが48%を占めていた。1918年、ウィスコンシンの田舎町にもマイカーブームが来ていたようで、いくつかの車種が物語に登場する。一方でこの車の流行は、それまで活躍していた馬たちを道の外に追い出してしまうものだった。馬具屋のシャドウィクが乱暴に道を走り回る車をののしっていた。“It’s these gol-danged automobiles, smelly, noisy, dirty things, scaring horses right off the road . . . ruin a man’s business . . .”(109)。時代に取り残されそうな1人の凄腕職人の悲しい姿が描かれている。人が馬よりも車を選ぶ理由はいくつも挙げられる。速く遠くまで走れて時間の節約ができる。運転が簡単で、世話も楽。餌代よりもガソリン代の方が安い。それに、1914年に始まった戦争が馬をヨーロッパへ連れて行ってしまった。その穴を埋めるように車が市民の生活に入ってきた。戦地での役目を終えても、アメリカに馬たちの活躍の場はもう残されていなかったのだ。発展という栄光がつくり出した影に飲み込まれていく悲しき運命をスターリングは見届けていた。
続いて、「自伝小説」という言葉を分解して、Rascalを考えていく。この単語は「自伝」と「小説」に分けられる。「自伝」はこれまで示してきたように、ノースの思い出を伝えるためと解釈する。すると、「小説」というものに目を向けると、新たな疑問がわいてくる。小説にする必要があったのだろうか。自分のことを語る方法は他にもある。プロフィールやエッセイ、日記でも、文字にして残すことは可能だ。それらではいけなかった理由があるはずだ。ノースが小説家であったから小説になったという意見は否定できないが、その答えが完璧だとも言えない。彼は新聞記者でもあったからだ。文体をどうするかはノース次第であり、小説であろうとなかろうと、プロとしての作品が作れたわけだ。とりあえずは手始めに、小説という物を理解しておこう。言うまでもなく、物語を書き示した物だ。そこには登場人物がいて、事件が起こり、状景つまり舞台がある。確かにRascalはこれら全てに当てはめられる、小説と呼べる作品だ。では一体、ノースの思い出を小説にする利点と意図は何なのだろうか。
小説は報告書ではない。これが答えの一つだ。無機質な文書で人の心を動かすことは難しい。この論文の後半でも言及するように、ノースはRascalにメッセージを込めていると思われる。書かれている文章だけが内容の全てではない小説だからできることだ。新聞や雑誌の記事は事実を並べ、報告しているにすぎない。そこに著者の感情があってはならないのだ。報告の例として、ハーシェルからの手紙を引用する。休戦後、スターリングに届いた手紙で、戦争中ハーシェルがどこに行っていたのかが書いてあった。
We spent a couple of months in the Haute-Marne region and then went to the Alsace Sector. Later we joined the Château-Thierry Offensive, the Oise-Aisne Offensive and the Meuse-Argonne. We were on the Meuse at the time of the Armistice.(164)
極端な例だが、Rascalの内容もこのような報告型の文に変えることができる。「ラスカルと出会った。ラスカルが巣穴から出てきた。父さんと一緒にホイッパーウィルを探しに行った」となるだろうか。実に退屈だ。人の心も描ける小説がRascalには向いている。そして、ノースにとってアメリカの歴史を語るベストな方法が何であったか、思い出してもらいたい。「だれかの人生のストーリー」を使う方法だ。ストーリー、つまり物語である。より多くの読者に理解してもらえる手段が、事実の小説化なのだ。大切な思い出に対し、ノースはベストな方法を使っていたとなる。
Rascalが小説になった理由を見つけたので、次は小説の要素から分析しよう。小説に登場人物がいることは確認済みだ。では語り手という人物に注目すると、何がわかるだろうか。作家にとって、小説を書くうえで悩みどころとなる点はいくつかある。主要人物は比較的簡単に決まるのだが、誰にストーリーを語らせるのかが難しいところだ。一人称か三人称か。または神か主人公ではない登場人物か。それと共に時間のずれも設定に加えることができる。ストーリーの進行と語っている時間が同時とは限らないのだ。Rascalの語り手は1963年のスターリング・ノースである。主要キャラクターは1918年のスターリング少年とラスカルだ。自分の思い出を語るのなら自分でストーリーを語るのが一番だとするにしても、時間のずれという設定は選ばなければならない。大人になったノースが少年時代を語るのは何のためだろうか。
思い出を思い出として書いた。これに尽きる。ノースはRascalを小説にすることで、ある程度の嘘を書くことができた。そして出来事を書くか書かないかも選べた。事実を書いているようだが、当時を完璧に再現しているわけではないのだ。もし、語り手を1918年のスターリングとしたならば、筆者である1963年のノースは1918年を正確に描かなければならない。その物語はスターリング少年の目に映ったものをリアルタイムで語ることになるからだ。だがRascalは回想記だ。あくまでノースが覚えていることを書いた物。頭の中にある記憶と現実に起きたことでは差がある。時間が経過するとその差は大きくなり、事実の輪郭がぼやけてくるものだ。この結果として生まれる感情を、人は「懐かしさ」と呼ぶ。ノースは時間のフィルターを使って、懐かしい記憶を本に書き写したのだ。そして、大人になってから気づいたことも書き加え、Rascalを完成させた。
アメリカの歴史を語るために、ノースは自分の人生のストーリーを通して語ろうとした。そうして生まれたのがRascalである。書くべきことがとびきり多い1918年を舞台とし、1962年の父の死をきっかけに家族の思い出をノスタルジーに描ききった。心に残るあの頃が消えてしまわないように、小説に書きとめ、読者の手に置いていったような気がする。
第2章 ラスカルに焦点を合わせた理由
次は、たくさんの要素または伝えたいことが含まれる1冊の本の中で、何故ラスカルが中心に置かれたのかを見ていく。Rascalという本の内容を一言で表すならば、「スターリング・ノースが11歳だった頃の思い出」となるだろう。しかしその思い出を細かく分けてみると、父との生活、ペットのこと、釣り、カヌー作り、仕事、WWI、友人との付き合い、母の思い出などとなる。どれを取ってもメインとなりうる項目だが、ノースはあえてラスカルを選んだ。小説の題名にし、章ごとの名前はこの本がラスカルの成長記録であるかのように月で示されている。どうしてラスカルでなければならなかったのか。
何よりもまず言えることは、ノースが大変なアライグマ好きだったということだ。それが第1の理由に挙げられる。1943年、ニューヨーク・ポスト誌での仕事のために、妻子を連れてニュージャージー州のモリスタウンへ引っ越した際、ノースはアライグマが家の近くに住んでいると知り、とても喜んだ。よく訪ねに来る野生のアライグマたちのために、ノース家はエサ台を設置し、そこに庭で採れた野菜を入れてやっていた。子供の頃に見た近所の大人たちとは違い、ノースはアライグマと分け合う生活をした。アライグマへの愛は残っている写真からもわかる⁽³⁾。これだけの想いがある作家が、自分の作品にアライグマを登場させないわけがない。満を持して、アライグマを好きになるきっかけをくれたラスカルで物語を書くことにしたのではないだろうか。後に出版されたRaccoons Are the Brightest Peopleも含め、ノースは世にアライグマという生物の素晴らしさを伝えようとした。
ノースが自分の少年時代を語るならば、ラスカル抜きでは語れなかった。それほどラスカルは特別な親友だった。このアライグマと過ごした冒険のような日々は、ノースの人生において最も美しく、物語るに値する思い出である。
スターリングがラスカルをウェントワースの森で見つけた時、ラスカルは乳離れもしていない赤ちゃんで、1ポンドにも満たないフワフワのボールのようだった。それでもトレードマークの縞々シッポと目の周りにある黒いマスクはしっかりついていた。スターリングとハウザーはこの小さなアライグマにすっかり心を奪われてしまう。ラスカルが成長するにつれて、その性格も現れてくる。とてもおもしろい子で「スピードと冒険と探検が大好き」(“loved speed and adventure and exploration”)(118)な、名前の通りやんちゃ坊主だった。野生動物らしく、好奇心のままに行動するラスカルは小さいながらも「ライオンのハート」を内に秘めていた(“this absurd and lovable little creature had the heart of a lion.”)(36)。ポーとケンカしたり、熊皮の絨毯に挑んでみたり、カモの親子に負けて帰ってきたりと、チャレンジャーなところがある。そんな勇敢さを見せる一方で、ラスカルは何ともかわいらしい寝方をしてくれる。シッポを枕にして丸まって眠ったり、木の上で腕も脚もだらりと垂らして日光浴をしたり。微笑ましい思い出が続々と出てくる。ノースは自分の子供たちが幼かった頃によくラスカルの話を聞かせていたという。彼らのお気に入りのエピソードは、ラスカルが初めて角砂糖を食べた時のことだった。もちろんこれもRascalの中で大切に語られている。スターリングがラスカルに角砂糖を渡すと、ラスカルは自分の前に置かれたミルクの入ったボウルに手を突っ込んで砂糖を洗い始めた。すると当然砂糖は溶けてしまい―
He felt all over the bottom of the bowl to see if he had dropped it, then turned over his right hand to assure himself it was empty, then examined his left hand in the same manner. Finally he looked at me and trilled a shrill question: who had stolen his sugar lump?(33)
この状況を正確に伝えるノースのおかげで、子供たちも読者もスターリングのように笑ってしまうのだが、やはりラスカルの反応がとても良かったためにここまで盛り上がったのだろう。ラスカルでなければいけなかったのだ。もしもオスカーがラスカルではなく、他の兄弟を捕まえていたら、Rascalに書かれたような1年にはならなかったかもしれない。
スターリングにあそこまで懐いたのも、ラスカルだったからなのだろう。アイリッシュピクニックのパイ食い競争で、スターリングはこう思った。“Then my best friend came to my rescue.”(127)ラスカルがスターリングのパイを反対側から食べ始めた場面だ。ラスカルも物凄い勢いで食べてくれたため、スターリングは一番速く完食することができた。しかし、違反ということで失格となり、繰上げで2位のオスカーが優勝するという結果になった。ラスカルがもし、ただの食い意地の張ったアライグマだったら、オスカーや他の参加者のパイを手当たり次第に食べていただろう。おいしいとわかっているブルーベリーパイがいくつも並んでいるのだから。だが、ラスカルはスターリングのパイしか食べなかった。“my rescue”と表現しているのがその証拠だ。スターリングだけにしか関心がないというように見える。信頼を寄せ、懐いているということになる。ラスカルがスターリングのことを大好きだと思っているのがわかると、スターリングはラスカルを更に大切に思うようになる。他のペットではまねできない仕草や行動が、ラスカルを特別な存在にしている。そして親友と呼べるのは、2人がどんなときも一緒にいたからだ。
とにかくスターリングはラスカルと一緒にいようとした。遊びも、食事も、寝る時も、仕事も、風邪をひいた時も、ラスカルが檻に14日間閉じ込められた時も、いつも一緒にいた。檻を作り始める前夜、木の上で星を眺めながら思っていた。
I had a sad but happy thought. If Ursa Major, the Great Bear, was my constellation, Ursa Minor, the Little Bear, was by natural right Rascal’s constellation. Long years after we were both gone, there we still would be, swimming across the midnight sky together.(116)
彼らの関係は運命共同体と呼べるものだった。辛い時も支えあえる大事なラスカルと長く暮らせるように、スターリングは一生懸命ラスカルを守った。そしてラスカルの自由を尊重し、伸び伸びと育ててやった。ラスカルの運命を左右する大きな決断をするとき、ラスカルの意見に任せていた。“Do as you please, my little raccoon. It’s your life.”(189)ラスカルにかけてやった最後の言葉である。それに、クラスメイトの前で言ったセリフが、スターリングがどれほどラスカルを特別に思っているかを表していた。“He’s a wonderful pet.”(140)(italics mine)
ラスカルの面倒を見ることは、他の思い出とも関連してくる。父と旅行に出かけたのもラスカルがきっかけ。釣りにもラスカルを連れて行った。姉とのやり取りもラスカルがいなければ、あれだけ面白い事件にならなかった。1つ例を挙げてみよう。第3章7月のこと、スターリングは“Feed him [Rascal] a favorite food, say a kind word, and he was your friend.”(53)ということに気づいた。それを証明するために、ラスカルの友達を2人紹介している。メソジスト教会に勤めるジョー・ハンクスの場合、“His secret for winning Rascal’s affection came in his lunchbox [half of one of his jelly sandwiches].”(54)ラスカルがジャムサンドに釣られている。食べ物をくれるかどうかで良い人だと判断しているようだ。洗濯屋のジムはラスカルにペパーミントキャンディをあげており、ラスカルはすっかり懐いている。更にスターリングは発見した。“Apparently Rascal was aware of the first faint rattle of the coaster wagon far off down the street.”(54)ジムの手押し車の音が聞き取れるため、ラスカルは曜日がわからなくとも、いつジムが来て飴をくれるのか察知できているというのだ。そして、その音を聞き分ける優れた耳は音楽までも楽しんでいるらしい。お気に入りの曲“There’s a Long, Long Trail A-winding.”をうっとりした目で聴いているのだ。その曲はナイチンゲールについて歌っている。それでスターリングはナイチンゲールがアメリカにいるのか疑問に思った。するとウィラードが“Not nightingales, but we do have whippoorwills, of course.”(55)と言う。こうして2人と1匹はホイッパーウィルを求めて出かけることになった。たった3ページの間にこれだけ自然な流れで話題が進んでいく。ラスカルといれば、印象深いいろんな思い出を急展開することなく書くことができる。いつも一緒いたためにそれが可能となり、だからこそラスカルを物語の中心に置いたのだ。
この小説のタイトルはどうだろうか。Rascalだ。ラスカルについて書いてあることが一目瞭然である。しかしそのまま流さず、これにも注目しておこう。本のタイトルは本の顔とよく言われるほど肝心なものだ。これについても作家は頭を悩ませる。Rascalがラスカル中心の話だからRascalなんだと単純に決められるものではない。題名にできる案ならいくらでもあるのだ。「ラスカル記」、「ラスカルと過ごした日々」、「ぼくの親友」、私が勝手に作るだけでもこれだけ出てくる。しかしこれはRascalだ。何か理由が隠されているはずだ。
ラスカルがRascalの中でどのように描かれているのか今一度思い出すと、答えに近づくことができるだろう。まず外見の描写があり、性格もノースの言葉でまとめられている。それから、体重が詳しく表記されている。スターリングがラスカルを見つけた時点で、“less than one pound”(15)。ラスカルが巣から出て、自由に歩き回れるほどになると、“two pounds”(36)になっていた。8月、バートの家で測った時は、“four pounds and three ounces”(101)で、順調にいけば1カ月に1ポンドずつ増えるとバートは言った。2月、リリアンにまだ子供だと言われた時、抗議するようにスターリングは言った。“I weigh nearly one hundred pounds. With Rascal on my shoulder I weigh one hundred and eleven.”(178)つまり11ポンド(≒5kg)。非常に細かいデータである。ラスカルの行動は目に浮かぶように活き活きと書かれてあった。更に、挿絵もラスカルの成長を見せている。各章に1カットずつ入れられている絵には、必ずラスカルが描かれているのだ。ノースの思い出の中にいるラスカルだが、これだけはっきりとした情報があると、ラスカルがこの本の中にいるようだ。本を開けばラスカルと会える。この本を求めることは、ラスカルを呼ぶことであり、会いに行くこととなる。なので余計な言葉はいらない。ただRascalで十分なのだ。
ところがそれで落ち着いてはいけない。物語の中心となりえたはずの人物がもう一人いたのだ。少年時代のノースにとって最重要人物だった母エリザベスだ。彼女ではなくラスカルを選んだ理由も無ければ、この論文は不十分となる。1914年、47歳でこの世を去ったエリザベスは、尊敬すべき優しい母親としていつまでもノースの心に残っていた。いなくなった母親の代わりを求めるように、スターリングは自分に優しくしてくれる3人の女性に対し、特別な意識を持っていた。オスカーの母には“As Mrs. Sunderland knew, my mother had died when I was seven, and I think that was why she was especially kind to me.”(17)と思っている。生物学のウォーレン先生には、“Miss Whalen loved biology as my mother had loved it.”(134)と語って母と比較し、彼女にアライグマが人間のように進化をするのかを話した後、ばかにせず、あたたかく笑って聞いてくれたことにほっとし、“I left the classroom feeling that Miss Whalen was a very special person.”(138)と感じていた。リリアンには“You’re like a fourth son to me, Sterling.”(148)と言われ、スターリング自身一度彼女と母親が重なって見えていた時があった。“And she looked so much like my mother as she said it that I wondered to whom I was talking . . . . I listened as though it were indeed my mother speaking.”(180)母親がいない部分をどうにか埋めようとしているように見える。その欠如に思い悩んでいることがテキスト内ではっきり書かれていた。
She [Elizabeth] would have been interested in studying more closely the habits of all these animals [the pets Sterling was raising―Rascal especially], and would have helped me solve some of the difficult problems they presented.(28)
これほど母の面影を追っているのなら、この想いを話の中心に持ってこられたはずだ。しかしそうしなかった。理由は結末にあると思われる。もし、母親との思い出を描こうとするなら、幸せな時間から始まり徐々に内容が暗くなっていき、最終的には彼女の死にいきつく。書くにも読むにも辛い物語をノースが書くだろうか。その話が進めば恐らく、父親のことを悪く書かざるを得なくなる。折角時間が経って心を許せるようになったにも関わらず、癒えた傷をえぐるようなことはしないはず。家族とのあたたかい思い出を本の中で再現するには、エリザベスでないテーマで書くべきである。わざわざ本にして残すのだから、幸せをたくさん描きたいはずだからだ。
では、何がテーマに相応しいのか。当然ラスカルに決まっている。ラスカルとの思い出は幸せに満ちている。結末は悲しいが、あの別れはスターリングとラスカルの成長への希望がうかがえるものだった。なおかつ、ラスカルと一緒に自然の中にいると、たまにエリザベスが教えてくれたことを思い出すことがあった。ブルーレ川の流れる森をラスカルと歩いていると、スターリングは生命の神秘を感じていた。
It seemed a miracle that anything as young as fingerling trout or grouse chicks or my small raccoon could move along this watercourse among boulders as old as the world―the new life of this very season amid granite predating even the first life on the globe.(92)
そして生前エリザベスが話してくれた、世界の誕生へと内容が移っていく。この年の思い出は美しい。ラスカルがいれば、大好きな母のこともノースは書くことができるのだ。
最後に、ノースがRascalを通して読者に伝えたかったことから見ていく。執筆中、ノースはRascalを若者に呼んでもらおうと考えていた。前途したように、ラスカルのお話はノースの子供たちに気に入られていたため、若者への受けはある程度保障されているようなものだった。お茶目でいたずらっこのラスカルを物語の中心に置けば、楽しく読んでくれるだろうといった思惑があったかもしれない。Rascalが読者に訴えていることは、これまで述べてきた彼の思い出と、言葉の美しさ、アメリカの歴史、そして自然への関心だ。思い出以外の要素を言い換えると、“linguistics”、“history”、“biology”となる。ノースがRascal以前に出した作品は、それぞれこれらのジャンルに分類できる。ということは、Rascalはノースの書きたいことが全てきれいに1冊に収められた最高傑作であると言える。多くの要素を含んだ本が200ページを超えないというのは、ノースのバランス感覚の良さを示している。確かに学校の授業でテキストとして使われるには悪くない長さだ。それに、要素が多いということは、それだけこの作品への見方を変えることができるということになる。動物の話として読んだり、昔のアメリカの文化を知るために読んだりと、さまざまなアプローチができるのだ。だがそうなると、この本にあるメッセージを一言でまとめるのは難しい。要素の数だけメッセージがあるのだから。この章ではRascalが何故ラスカルメインの小説なのかで話を進めているので、ここでは“biology”に注目しよう。
若者に読者のターゲットを絞ったのならば、それは次世代へ伝えたいメッセージがあるのだと考えられる。時代の変化と共に追い込まれたり、消え去ったりしてしまう儚さを見せ、ノースはこの流れを勢いのままに任せるのではなく、少し立ち止まって考え直してもらいたいと願っているのではないだろうか。例えばスターリングがホイッパーウィルを探しにカムリン農場を訪れたシーン。“It [virgin forest which Kumlien had protected from the ax] is gone now, but it was there when I was a boy”(67)ただ森に向かって歩いていたと書けば良いところを、このような予備知識を追加している。必要であるから書いたのだろう。良い思い出の中で「今は無い」と知らされると、著者がこの事実を悲しんでいると受け取れる。やっと聞こえてきたホイッパーウィルの鳴き声は、スターリングに不思議な感覚を与えた。“A Soloist against the symphony of the night making me feel weightless, airborne, and eerie―happy, but also immeasurably sad.”(69)何故だか悲しそうなのだ。ウィラードが幼い頃は簡単に聞けたこの鳴き声が、スターリングには聞きに来ないと聞けないものになっていた。それだけ環境が変わってしまったということと、それによってホイッパーウィルの自由が制限されてしまったことを考えると、悲しく感じるのだろう。別の例で、リョコウバトの話もその手のことを訴えてくる。著者のノースは書く思い出を選択できる。ストーリーの進行上、この剥製の話題は無くとも問題なくいけるのだが、長めの会話で登場している。やはりこれも必要なシーンなのだ。
“I could kill birds all day,” my uncle said. “Used to shoot down passenger pigeons by the bushel basket.”
“And they’re all gone now,” Aunt Lillie reminded him. “Not one passenger pigeon left in North America.”(151)
リリアンの“gone”というセリフがなんとも悲しい。失いかけているものと完全に失ってしまったものを語り、読者に寂しい現実を突きつけてくる。スターリングはフレッドの農場滞在の後、毛皮パンフレットに載っている腕を罠に挟まれたアライグマの残酷な写真を見て、マスクラット狩りの準備を慌ててやめた。“How could anyone mutilate the sensitive, questing hands of an animal like Rascal?”(160)こう思い、自分のしようとしていたことが恐ろしいと気づき、どんな運命の悪戯か、第一次世界大戦の休戦記念日にスターリングは動物や鳥たちに永久平和条約を誓った(“a permanent peace treaty with the animals and birds”)(161)。スターリングは動物たちを絶対に殺さないと決めた。これが彼の中での自然を守る最善策なのである。あくまでも、その平和条約は一つの案として提示されているだけで、ノースは読者にこれを強要しているわけではない。だが、野生生物の営みを邪魔してやらないで欲しいという想いは少なからず発信されている。物語の最後にスターリングはラスカルと別れる。ノースはこの小説の始めからずっとラスカルの愛らしい姿を見せてきた。そして別れたところで話をぷつりと終わらせ、その後を一切明かさない。こんなにかわいいラスカルと彼の仲間たちの住む世界を壊さないで、見守ってあげてくれという願いが、この描き方に込められているのではないだろうか。
ラスカルのためにどんな問題にも逃げずに挑戦した1年間、ノースはさまざまなことを体験した。ラスカルがノースの生活の中にいた1918年は書き残しておきたい想いを全て詰め込められる最高のシーズンだったのだ。そしてその時間が教えてくれた自然を慈しむことの大切さを、ノースはラスカルを用いて読者に伝えている。
終わりに
仕事が落ち着き、60歳間近になっていたノースは人生を振り返るようになっていた。家の外からはアライグマの鳴き声が聞こえてくる。あのやんちゃな友人が思い出される。そして父の死が訪れた。翌年、ノースは自分の過去を本に書き起こした。ラスカルがいたあの1918年、父と過ごした懐かしい記憶に、母の優しい言葉を思い出していた大切な1年間を切り取って物語にした。ついで、当時起きていた事件や暮らしの様子をも描いた。この世界から忘れ去られて欲しくない事実を小説に書きあげ、古き良き時代を色鮮やかに本の中に留めさせた。ラスカルの家族や子孫たちが、これからもずっと幸せでいられるよう願いを込めて。
注
(1)“All of my friends in this book, both animal and human, were real, and appear under their rightful names. A few less lovable characters have been rechristened.―Sterling North”(6)と書かれている。
(2)Dutton Animal Book Award(1963)、Newbery Honor(1964)、Lewis Carroll Shelf Award(1964)、Dorothy Canfield Fisher Children’s Book Award(1965)、Sequoyah Book Award(1966)、William Allen White Children’s Book Award(1966)、Pacific Northwest Library Association Young Reader’s Choice Award(1966)などを受賞した(“Rascal(book)”)。
(3)スターリング・ノースと2匹のアライグマ
引用文献リスト
Foust, John. “Rascal.” n.d. Web. 21 Dec. 2013.
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