キリスト教の新約聖書には、神、人間、天使、怪物などが登場する。ナルニア国には、アスラン、人間、動物、神話の住人たちが登場する。どことなくではあるが、この二つの本は似た点が見られる。
まず統治がそうだろう。地球もナルニアも、人間が行っている。私たち人間が正しく行動することが大切なのだと、訴えているようだ。人間は働き、神は見守るという関係図が、両方の世界で見られる。聖書では、人間は神の姿に似せてつくられた物とされている。つまり、地上で一番神に近い者は人間である。人間が地上のトップであるのは当然ということだ。人間ではない、動物や神話の生き物たちでは、神から遠くなってしまう。統治の役目は人間が果たすべきことなのである。
ルイスが子供たちを選んだ理由は、彼らが長い未来を持っているためだろう。夢や希望があり、期待ができる、そういう者に国を託したい。大人の汚い欲の部分を持たない者たちこそが、それに相応しい。金や地位に捉われない、純粋に幸福と平和を願う子供たちが国を統治すると、大人がするよりも良いと考えたのだろう。
また、イエス・キリストとアスランをつなげるイメージが存在する。ライオンのように威厳ある王のようなイエス・キリスト。キリストは羊飼いとしても例えられ、人々に慕われる人物であった。アスランもまたそうだろう。彼を嫌う人は、物語の中で良いことは無い。聖書においても、キリストまたはキリスト教を悪く思う者は救われない。キリストとアスラン、両者は復活後、死刑によって殺される前よりも落ち着きが増し、堂々とし、より高貴な存在になったような気がする。
キリスト教の世界で起こる不思議や奇跡とナルニアの世界で起こる魔法は、似ている点の一つといって良いだろう。この世では見られない神話のキャラクターや怪物たちが、その不思議な力の存在をより意識させる。古い神話から来た彼らはまた、ナルニアがまだ生まれたばかりの世界であることを示しているのかもしれない。この力は、聖書の中ではキリストの周りで、ナルニアではアスランの周りで起こる。奇跡や魔法は、キリストやアスランが他者を助けるために使われる。また、キリストやアスランの身に起こる不思議は、もっと上の偉大な者が定めた運命や法で行われているようだ。そして、この奇跡たちは全て、世界を良い方向へ導くためにはたらいているのだ。
さらに、恨まれることもまた、彼らの共通点と言える。キリストはユダヤ教の祭司たちから、アスランは白い魔女から恨まれていた。しかし、そういった相手がいたからこそ、キリストとアスランは英雄になれたのではないだろうか。「正しさ」がどのようなことなのかを示した方が英雄なのだ。
キリストと子供たちにも共通点が見られる。どちらの世界も、最初の者たちは土から生まれた。聖書では、最初の人類は土でつくられた。ナルニア国でも、動物たちは土から誕生した。そして、キリストは神が聖母マリアに授けた者で、ナルニアに登場する子供たちは別の世界から来た者たちだ。上に立つ者は、選ばれた者、つまり特別である。キリストは神に認められ、子供たちはナルニアに認められた。その上、彼らのことについての預言があった。創造主がつくった運命に選ばれたのが、キリストと子供たちということになる。
最後に、私の少しおかしな考えなのだが、新約聖書は福音書などからなるものだ。それぞれの著者の目線から書かれた記録である。ナルニア国物語も「I」という語り手がいる。ということは、ナルニア国物語は別名、ルイスによる福音書と呼べないだろうか。
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