2014年1月31日金曜日

Rascal:作文①

はじめに
私がRascalという本を初めて手に取ったのは高校生の頃。内容を知らなかったが、名前だけは知っているそれを読んでみることにした。なるほど、アニメ化されたからといって簡単な英語で書かれているのではないのだな。私は23度読もうとトライしたが、1ページ目でことごとくギブアップした。それから大学生になり、2011年秋、テレビでスープのCMを見ていた私の目に飛び込んできたのは「つける」か「ひたす」かで迷っているラスカルだった。なるほど、やはりラスカルは今でも人気のキャラクターなのだな。そういえば、Rascal買ったけど読んでないなと思い出した私は、久しぶりにその本を開いて閉じた。やはり難しい。アライグマの話なのに、2ページ目のセントバーナード犬について書かれたところが読み取れず、呆気なく断念した。2012年、卒業論文を書くか書かないか決める頃、「大学生だから書くでしょ」と言いながらテーマを探していた。そうだ、Rascalあるからアレでいいや。この機に読んでしまえ。日本でこれだけ有名なのだから、情報だってたくさんあるだろう。私はイギリス文学のゼミからアメリカ文学のゼミに変更する上、何より動物が好きなのだから、これほど自分に合う作品は無いだろうと考えた。しかし甘かった。Rascalを読むまでは順調に進んだのだが、そこから何を論じようかなかなか定められなかったのだ。インターネットでスターリング・ノースやRascalを調べたが、話の要約や簡単で同じような情報が載っているばかり。日本のサイトでは原作ではなく、『あらいぐまラスカル』のことばかり。更に、ラスカルというキャラクターが独り歩きしてツイッターまでやっていると知った日にゃ、私は呆れてしまった。日本語で書かれた論文でラスカルを使ったものは、アライグマの野生化を伝えるもののみ。ラスカルやスターリングを正しく教えてくれる本を書いているのは、ちばかおりさんだけなのだ。これだけ優れた作品を正しく理解していない日本人は恥だ。私はちばかおりさんに続き、Rascalという本の姿をより多くの人に見せたい。そしてこの論文の進む方向が決まった。
1964年に出版されたスターリング・ノースのRascalについて論文を書くということで、私はとりあえずアライグマを見に動物園へ行った。アライグマ舎の中でウロウロ歩き回っている2匹をしばらく観察していると、「アライグマだって。ラスカルだよ」と言う声を聞いた。私の隣に、小さな男の子を連れた女性がいたのだ。そのまま観察を続けながら、「やはり日本人にとって、アライグマといえばラスカルなのか」と思った。その親子が離れていった後も、誰かが来るとアライグマ舎の前で「ラスカル」という言葉を耳にした。彼らはどれほど理解してその名を口にしているのだろうか。恐らく、薄っすら記憶にあるテレビで見たストーリーと今でも人気健在のかわいいラスカルが大半の日本人にある知識だろう。一方、ある程度この物語を知っている人の中には、ペットのラスカルを森へ帰すなんてスターリングは無責任な奴だとか凶暴なアライグマを日本に持ち込んだ最悪のアニメだとかいう見方をする人もいるようだ。私はこのような人たちに原作をしっかり読んでもらいたいと思う。原作を理解できれば、この作品がアニメ化に選ばれたことも、クリエーターたちが日本人に見せようとしたこともわかってくるはずだからだ。日本人はRascalをぞんざいに扱ってはいないだろうか。「かわいい」だけのラスカルに注目する前に、「スターリングの親友」としてのラスカルの話を知っておくべきではないだろうか。これからRascalの魅力を、ストーリー、舞台となる時代と当時の生活、作者という3つの要素から解説していく。名作と呼ばれるこの物語を見直してほしい。世界中がRascalの素晴らしさを認めているのに、これだけラスカルの知名度が高い日本がそれをわかっていないというのはおかしいのだ。

1.      キャラクターと友情
 Rascalには「人間と動物の友情」が見られる。これは動物好きな人が追い求めるテーマであり、年齢、国を問わず、そのような多くの人が「読みたい」と思う条件の1つとなる。確かに、このテーマを扱った作品は他にも多くあるが、その中でもRascalは特別に輝いている。何故なら、まず1つにこれがスターリング・ノースの自伝小説であるからだ。全くのフィクションではなく、実際にあったということで人は感動しやすくなる。また、スターリングとラスカルがそれぞれ読者に好かれやすいキャラクターであるという点も理由に挙げられる。では、スターリングがどういう少年で、何故ラスカルが特別なのかを見ていく。

スターリングとは
 上記したように、Rascalはスターリング・ノースの自伝小説であるため、語り手であり主人公の男の子は著者本人である。しかし、ここではスターリングを1人のキャラクターとして注目する。そうすることで、彼がどれだけ主人公という大役に値する人物であったのかがわかってくる。
 まずこの物語を読んでもらうためには、読者に興味を持たせる必要がある。そこでスターリングの特殊な生活が目に留まる。アライグマを飼いたいと思うきっかけとなるのだから、これが無ければ話は始まらない。スターリングは家族を「おもしろくて、教養があって、愛情のこもった優しい」(“interesting, well-educated, and affectionate”)(28)人たちだと言っているが、そんな大好きな家族と楽しく暮らす生活は終わっていた。母はスターリングが7歳の時に他界。兄はヨーロッパの戦争に行っており、上の姉はミネソタで結婚生活、下の姉はシカゴの大学院に通っている。唯一一緒に暮らし続けている父でさえもよく仕事で家にいない。11歳の男の子には心細い生活環境だった。そのさみしさを埋めようと、スターリングはたくさんのペットを飼うようになる。ここにわんぱくなアライグマの子供が加わり、スターリングの毎日は冒険へと変わった。悲しいことや楽しいことが次々に起こり、それらの出来事が読む人をRascalの世界に引き込んでいく。家族としては、優しく面倒を見てくれる母親がいない、兄のことが不安でならないなどの辛い部分、そして、たまに姉たちが帰ってきてくれる、息子に対し放任主義の父が車で小旅行に連れて行ってくれるなどの嬉しい部分。非常にバランスが取れている。ラスカルに関しては、檻に閉じ込めなければならないことを考えつつ、スペリオル湖でのキャンプを存分に楽しむなど。どうにもできない悲しみとささやかな喜びの数々を前に、読者は同情と安堵を感じる。ラスカルと過ごす1年をスターリングの目を通して、気持ち良く読み進めていけるのだ。
 とはいえ、スターリングの家庭事情や1人で家事をこなしているところなどを見ると、ひどく大人びて見えてしまう。本当に11歳なのかと疑いたくなるほどしっかりしているのだ。けれども、楽しそうに、また熱中して遊んでいる彼を見れば、そんな疑心は頭の隅に追いやられる。戦争只中の当時としては、両親が長時間働いていたり、子供が疎開をしたりしていたため、親子が離れ、子供らが自立して成長しているのは珍しくなかったが、料理や広い家の掃除、ペットの世話に畑の手入れを1人でやりつつ趣味もきっちりやっているスターリングは凄い。だが、正真正銘11歳の釣り好きな少年なのだ。思わぬ吉報に、ラスカルを持ち上げてクルクルと小躍りしてはしゃぐスターリングに、読者は彼のあどけなさを見る。彼も普通の男の子なのだと落ち着けるのだ。
 更に、主人公たる者、果敢なチャレンジャーでなければ読者はついてこない。スターリングはその要素も持ち合わせている。第一の挑戦はカヌーを作ること。設計、材料集めから組み立てまでをほぼ1人でやっている。2年かけての大作ということで、彼の根気とガッツの結晶とも言える。決めたことを最後までやり遂げるスターリングの強さが窺える。第二に自分でお金を貯めることだ。畑で採れた野菜を売ったり、アルバイトをしたりと、カヌーの材料やプレゼントを買うために働いて稼ぐ。子供なのだから大人に借りるなどすれば良いのに、彼はそうしない。プレゼントなどのご厚意はありがたく受け取るが、立ちはだかる問題には1人で取り組もうとする。そして、最も大きな成果を出した挑戦がラスカルの世話だった。子供のアライグマは人懐こいとはいえ、その飼育は簡単ではない。ましてやスターリングはラスカルを手に入れる時点まで、アライグマの生態をよく知らなかったのだ。大変な課題にスターリングは手を出したということだ。それでも途中で投げ出すことなく、ラスカルを立派な成獣に育て上げた。彼の困難に立ち向かう姿に、読者は応援してしまう。
 もう1つ読者がスターリングに感じるのは憧れだ。スターリングという少年を紹介するうえで欠かせないのは、彼が自然が大好きだという点である。両親や先生が優しくスターリングに生物学を教えてくれ、自然への興味がわいた。そしてペットを飼うことで動物を愛する優しい心も得られた。そんなスターリングが個性豊かな動物たちとふれあう度、人によっては懐かしみながら羨ましがっているようだ。更に、Rascalを好んでいる人たちは、動物好きの人に是非読んでもらいたいと薦めている。のどかな動物たちとの暮らしが描かれているからだ。犬、猫、ウッドチャック、カラス、アライグマに囲まれた生活。隣の家にはラスカルに懐いている駿馬がおり、叔父の農場に行けば牛の乳搾り、豚の餌やり、気晴らしにポニーに乗ったりする。森ではさまざまな野生動物との出会いがあった。家族について見れば彼の生活はかわいそうに思えるが、動物たちとふれあうという角度から見ると、本当に充実したものだったと言える。彼らとの思い出が幸せの糧になっていたのは間違いない。動物たちの自由を尊重している動物好きにとって、理想郷のような世界が広がっているわけだ。
 以上のことから、スターリング少年というのは読者の興味を引きながら退屈させない話を見せ、大人びた振る舞いの中に子供らしさを出して私たちを微笑ませ、頑張る姿で惚れ込ませ、夢のような動物たちとのふれあいでちょっとした嫉妬まで起こさせる、そんな男の子だったのだ。このように人の心を変化させるのだから、彼は主人公に相応しい。無責任なことをするような子には到底見えないのだ。スターリングの活躍があって、Rascalはおもしろくなっている。

ラスカルとは
 次はこの小説のタイトルにもなっているラスカルについて見ていく。ラスカルというと、日本中の誰もがとりあえず「かわいい」と口をそろえて言うだろう大人気キャラクターだ。しかし、海外では“cute”よりも“curious”“humorous”という言葉でイメージされている。“rascal”と似た意味の“mischievous”も読者のコメントでよく見られる。“cute”“charming”も使われるが、ラスカルの外見に対してではなく、ラスカルの行動を表現するために使用している。原作を知っている人からすると、ラスカルの魅力はこの子の内面にあると考えられるようだ。
 スターリングがラスカルを見つけた時、ラスカルは乳離れもしていない赤ちゃんで、1ポンドにも満たないフワフワのボールのようだった。それでもトレードマークの縞々シッポと目の周りにある黒いマスクはしっかりついていた。スターリングとハウザーはこの小さなアライグマにすっかり心を奪われてしまう。ラスカルが成長するにつれて、その性格も現れてくる。とてもおもしろい子で「スピードと冒険と探検が大好き」(“loved speed and adventure and exploration”)(118)な、名前の通りやんちゃ坊主だった。野生動物らしく、好奇心のままに行動するラスカルは小さいながらも「ライオンのハート」(“Weighing . . . little creature had the heart of a lion.”)(36)を内に秘めていた。ポーとケンカしたり、熊皮の絨毯に挑んでみたり、カモの親子に負けて帰ってきたりと、ラスカルもラスカルでチャレンジャーなところがある。そんな勇敢さを見せる一方で、ラスカルは何ともかわいらしい寝方をしてくれる。シッポを枕にして丸まって眠ったり、木の上で腕も脚もだらりと垂らして日光浴をしたり。まるで小さな子供を見ているようで、こちらは楽しくなってしまう。Rascalはただの厄介者というそれまであったアライグマのイメージを、仲良くなればこんなにおもしろい友人になるという新しいイメージに塗り替えてくれた。
 そしてまさしくラスカルがアライグマだったからこそ、この物語が特別になったのだ。動物が登場する文学作品の中で圧倒的に多いのは犬の話だ。それから猫、馬、鳥、クジラ、家畜、ライオンなど、ファンタジーとなれば空想上の動物が山ほど出てくる。アライグマが主役級で取り扱われている作品は多くない。その上、人間のように歩いたり話したりするのではなく、動物として描かれているものに絞ればなおのこと少ない。Rascalほどアライグマの生態を活き活きと書いた作品は、シートンの“Way-Atcha, The Coon-Raccoon of Kilder Creek”くらいに限られる。文学の中でも珍しい北アメリカ原産のアライグマは、世界中の人々の興味を集めた。更に、他の動物では真似できないようなアライグマ特有の能力が、その魅力を引き立てる。スターリングが「ずっと先の未来に、アライグマは人間みたいに進化するんじゃないか」(“So in one hundred million years or so, couldn’t raccoons develop into something like human beings?”)(137)と思うほど、器用にいろんな物を掴む手が、さまざまなことを可能にするのだ。食べ物を洗う、ドアを開ける、自転車のカゴに乗る、ビンを両手両脚で持っていちごソーダを飲む、メリーゴーランドやポニーにも乗る。どれをとってもかわいい。この魔法の手でペタペタ触られると、スターリングもドニィブルックもいちころなのである。しかしそれだけなら猿でもできる。まだおもしろい生態があるのだ。音楽を聴いて楽しんでしまうし、水泳だってできる。スピード狂のラスカルは、生きた毛皮帽子になってまでスターリングの頭の上でスケートのスリルを味わってしまう。カヌーに乗れば船首像のようになり、車に乗ればウィラードとスターリングがゴーグルを着けるその間で自前の黒いゴーグルをして思い切り風を感じている。眠気に襲われていない限り、彼はどこだってついてこられるのだ。アライグマが優れた生き物だということを、Rascalの中でスターリングは私たちに教えている。
 では、ラスカルはどうしてお茶目にいろんな行動ができたのだろうか。その答えはスターリングとの絆にあった。この少年とアライグマには、互いに母親がいないという類似点がある。彼らにはわかりあえる想いがあって、支えあっていける、そんな絆があったのだ。共感からくる好きという感情がラスカルを更に特別にさせる。それに加え、ラスカルはスターリングを必要とすることでスターリングを想っているという意思を示している。言葉を発しないラスカルだが、行動で彼の心が少しでも理解できる。トウモロコシ欲しさに抜け出すことはあっても、ラスカルはスターリングの元から逃げようとしなかった。「ぼくのことを本当の親のように見ていたんだ」(“looking to me as his natural protector”)(62)とスターリングが感じるほど彼のことを頼っていた。アイリッシュピクニックのパイ食い競争ではスターリングをアシストした。その時のことを“my best friend came to my rescue”127)と綴っている。彼らの友情が光った瞬間であり、何とも微笑ましいシーンとなった。助けに来たことから、ラスカルもスターリングのことが好きなのだとわかる。アライグマとしての生き方も教えつつ、伸び伸びと育ててくれたスターリングのそばにいて、ラスカルは幸せだった。大好きで、信頼できるスターリングといたため、ラスカルは様々なかわいい仕草を見せてくれたのだ。
 ラスカルの愛らしさは態度や振る舞いからくるものとも、人は理解しておくべきだ。ラスカルがアライグマであるから、そのような行動ができたということ。更には、安心できるスターリングのおかげでラスカルらしさを発揮できたということも確認すべき点である。

ラスカルへの愛
 スターリングとラスカルについて理解したところで、今度はスターリングがラスカルに対してどう思っていたのかを見ていきたい。彼の行動から読み取れるラスカルへの愛とは何だったのだろうか。
 とにかくスターリングはラスカルと一緒にいようとした。遊びも、食事も、寝る時も、仕事も、風邪をひいた時も、ラスカルが檻に14日間閉じ込められた時も、いつも一緒にいた。檻を作り始める前夜、木の上で星を眺めながら、自分たちがいなくなったずっと後になっても一緒に遊んでいられるように、大熊座と小熊座になりたいとさえ思った。彼らの関係は運命共同体と呼べるものだった。「もしラスカルを閉じ込めなければならないのなら、ラスカルと一緒にぼくも閉じ込めなければならない」(“if they have to lock up Rascal, they’ll have to lock me up with him”)(141)このセリフがスターリングの想いを物語っていた。
 一緒にいたい理由は、もちろんラスカルが好きだからで、特別な存在だからだ。辛い時も支えあえる大事な親友と長く暮らしたいがために、スターリングはラスカルを守った。だからラスカルから自由を奪う首輪もリードも檻も承諾することにしたのだ。この訴えが出てきたのは8月のこと。ラスカルは一人前とはいえないが、食べ物を自力でとってこられるようになっていたはず。ならば、スカンクを森へ逃がしてやった時のように、ラスカルも放してやるという選択肢があったはずだ。しかしそうはしなかった。ラスカルと離れる気など全く無かったのだ。自分に懐いているペットとそう簡単に別れることなどできない。それから彼にはラスカルを育て上げなければならない責任があった。スターリングにとってラスカルは初めから守るべき対象だったのだ。「あいつ[ラスカル]をいじめようものなら、町のどんな男の子でも犬でも、ぼくら[スターリングとハウザー]が相手になってやっただろう」(“We[Sterling and Wowser] would have fought any boy or dog in town who sought to harm him[Rascal].”)(15)と物語の第一段落目で早々に言っている。赤ん坊のラスカルを捕まえた直後にはこうも言っていた。「ぼくはアライグマを飼える喜びで何も言えなかったのもあるが、今後ぼくらに課せられる大変な責任で怖気づいてもいたんだ」(“I was both overwhelmed with the ecstasy of ownership and frightened by the enormous responsibility we had assumed”)(23)本来ならアライグマ一家で連れて帰るはずだったのに叶わず、赤ん坊アライグマは母親から引き離されてしまった。母親のいない辛さを知っているスターリングが、小さなラスカルから母親を奪ってしまったようなものだ。不覚にも自身と同じ境遇にさせたことで使命感がうまれた。守り抜いて、大人にしてやるという断固たる決意だ。この守りたいという気持ちがラスカルへの愛の根源にあり、愛しているからこそ怒った時もあった。セオがラスカルを外に追い出せと言った時とトウモロコシの被害を訴えられた時、スターリングはラスカルが自由である権利を主張した。また、心無い大人がラスカルを見て良い毛皮になると言った時は、そんなことさせないと言った自分の怒った声に驚きもした。全てはラスカルを守るために。
 しかし、物語の最終章でスターリングの心境は大きく変わった。それまで一所懸命世話をしてきたのだが、成獣になり始めたラスカルにしてやれることの限界を感じだしたのだ。本能のまま町を歩き回るラスカルの命の安全を保障してやれなくなった。そう確信したスターリングはラスカルとの別れを決める。ラスカルの自由を尊重しており、このままペットにさせておくのは自分勝手で軽率だと思われた。スターリングが最後にしてやれることは、ラスカルを自然の世界に戻してやることだった。彼はラスカルを捨てたわけではない。ラスカルを本来いるべき場所に帰してやったのだ。注目すべきなのは、スターリングが最後の選択をラスカルに任せたところで、首輪を購入した時と同様にラスカルがどうするかを待ち、そして言葉でラスカルの背中を押してやった。“Do as you please, my little raccoon. It’s your life.”189)スターリングの想いを受け止め、一瞬躊躇ったラスカルが彼らの間に真の友情があることを証明した。

 読者にとって、こんな名コンビが少年とアライグマで、しかも実際にいたのかと思うと、感動もひとしおだ。結末がドライでありながらも、残る余韻に浸ってしまう。自然を愛したしっかり者のスターリングといたずらっ子のラスカルが見せてくれる友情で満ち溢れた日々を追ったために得られる余韻だ。この2つの愛すべきキャラクターと彼らの深い絆があって初めてこの思い出は語られるに相応しいストーリーとなれた。スターリングとラスカル、そして彼らの友情はこの小説の要であり、魅力の1つなのだ。

2. 1918年という時代
 スターリングがラスカルと過ごした1918年は、アメリカにとっても世界にとっても重要な年だった。第一次世界大戦(WWI)が終わり、スペイン風邪の流行があり、アメリカでの大量生産と大量消費が主流になり始めた時だ。スターリングは世界の陰を見ていた。そして一方で、多くの子供が経験する楽しい生活の中にいた。ここでは、Rascalが単なる動物物語ではないことを確認していく。それがこの小説の存在理由になるからだ。

その時を伝える
 多くの死者を出した世界規模の出来事、WWIとスペイン風邪。スターリングに大変な危機をもたらしてはいないが、これらは無関係ではなかった。
 物語の中でも重要事項となっているWWIは、スターリングの悩みの種でもあった。砂糖などの配給制や家の畑(“war garden”)のような日常の一コマからも戦時ということが読み取れる。町の様子も、戦争の影響が見られた。1914年、スターリングの母エリザベスが亡くなったその年にWWIが始まる。アメリカは中立の立場にあったが、1917年に参戦。兄ハーシェルは兵士としてフランスの戦場へ行ってしまった。物語はここから始まる。以下は物語で登場する戦争関連ページのリストである。
P23        水平線で光る雷を見て大砲を連想すると、戦争を思い起こしたスターリング
P24        オスカーが叱られることやアライグマの世話など、なんてちっぽけなことで悩んでいるのかと思う。自分たちの平和な土地と遠い国の戦場を比較
P35        町にあるタバコ交易銀行に貼られた地図で戦況を知る。また、雷の鳴る夜は、たとえラスカルと一緒に寝ていようと悪夢を見たと語る
P65        ウィラードも少しはハーシェルを心配している模様
P71        戦争ごっこの禁止
P72        町の好青年ロリー・アダムスの戦死と葬式。戦争が遊びではないと気付いた子供たちの協力的活動
P112      多くの男性が戦争に行っており、農業は人手不足だった。そのため、子供たちも手伝いに忙しく、学校は新学期開始を延期させた
P113      ハーシェルからの手紙が届く。それ以前、スターリングは戦争の本を読んで、どのシーンからもハーシェルを連想させてしまい、兄が傷つく姿を夢で何度も見ていた
P114      その夢の内容と無事であることくらいしかわからない手紙の内容
P156      スターリングの誕生日に休戦の知らせが来た
P160      町中が歓喜に沸く
P164      ハーシェルからの手紙。体験談と、占領軍の新たな仕事のために半年は帰ってこられないという知らせ
このように、スターリングにとってWWIは頭から離れない大きな事だった。アメリカ軍は終戦までに約400万人の兵士をヨーロッパへ送った。内、10万人以上が戦死。そんな中でハーシェルは生き残ってくれたのだが、スターリングに多大な心配をかけ、無事を祈ることしかできない歯痒く苦しい時間を長く過ごさせていた。雲行きが怪しくなると、考えたくもないのに戦争の様子が目に浮かび、スターリングは人が死んでいくことを考えてしまう。彼のように、安全な国で、自分の目の前にある問題の対応に追われる日々の中、辛い思いで待ち続けた人がどれほどいたことか。RascalWWIについての資料を事柄からも人の心からも集めた物なのだ。
 第7章で登場したスペイン風邪は、戦争と並び深刻な問題となっていた。スペイン風邪の起源がどこなのかは定かではないが、最初に大きな被害をもたらしたのは19183月のカンザスだった。この病気は他のインフルエンザと異なり、20代から40代の若い年齢層にまで死者を出すほど被害を広げていた。致死率は約20%。とても強力だった。流行の段階は3つに分けられる。第1段階はカンザスの軍事キャンプから移されたウイルスによるヨーロッパへの拡散。全く新しい病気であると初めて公表したのがスペインだったため、この病気はスペイン風邪と呼ばれるようになった。世界中で感染者が増えていき、最も死者を出した第2段階へ突入する。191810月の1ヶ月間だけで195,000人ものアメリカ人が命を落とした。ブレールスフォード・ジャンクションには10月末から流行が見え始めたと書かれている(“Spanish influenza . . . hit Brailsford Junction late in October”)(145)。他の地域同様、この町も学校を閉鎖し、外出する人々はマスクを着用していた。スターリングもこの頃に軽い風邪をひいた。世間の状況が深刻なだけに、ウィラードも念のため息子を弟夫婦の農場で療養させることにした。スターリングが風邪になったとき、いつもそうしているからと病院に行かなかったのだろうが、当時の病院に新しい患者を受け入れる余裕は無かったため、症状が軽ければその選択肢しかなかっただろう。医師も看護師も多くが戦争でのサポートに向かっており、アメリカから離れていた。そんなとき、追い打ちをかけるようにスペイン風邪の流行が始まった。病院は人手不足でボランティアまで募ったが、それでも間に合わないほどだった。それに続き、棺も墓も用意しきれないために、死体が増える一方だった。そんな状態で迎えた休戦協定の日、人々は1つの災難の終わりに喜び、スペイン風邪から目を背けようとした。スターリングも回復後、パンデミックについては語っていない。しかし第3段階がその喜びによって発生した。兵士たちが家族の元に帰る流れに乗って、更にウイルスの移動が激しくなったのだ。そこで生まれた波がようやく落ち着き、1919年春にスペイン風邪の大流行は終わったと言われている。WWIよりも死者を出したこの悲劇は、アメリカで675,000人の命を奪い、全世界で5000万から1億人を1年という短期間で殺していた。
 世界を巻き込んだWWIとスペイン風邪を、スターリングは無力に成り行きを見届けることしかできなかった。しかし、彼の体験したことは暗い過去でありながらも、忘れてはならないアメリカの歴史の一部だった。次の世代の子供たちに、この事実を伝え残す役割をRascalは担っているのだ。

発展の結果
 アメリカにおける文明や経済の発展の中で1918年がどのようなポイントにあったのか、スターリングはその点も観察していた。交通手段に自動車が入ってきたという変化に対しての両極の意見を明らかにし、行き場をなくした者たちの運命をいくつかの角度から見せている。
 広大なアメリカという土地について、私たちには大量生産や大量消費のイメージが強い。この傾向の出発点は、「分業」という考えが生まれた1770年代にまで遡る。これが大量生産の根底にあるのだ。数十年後に銃工場で分業制が見られたが、大きな転換期に当たるのは、それからずいぶん後の20世紀初頭、フォード社が製造したT型車の誕生だ。ここからアメリカは一気に車社会へと変化していった。それまで、車はお金持ちのおもちゃで、決まった運転手が必要なほど乗るのが難しかった。ヘンリー・フォードは便利な車を市民にとってもっと身近な存在にするために、シンプルで丈夫で購入しやすい車を造ろうと決めた。1908年に発売されたT型フォードは1825ドルだった。4年後にはそこから更に下げられ575ドルで売られていた。この手頃な価格のおかげで、1914年までにアメリカ自動車市場でフォード社のシェアが48%を占めていた。これらを可能にしたのは、ベルトコンベアや分業といった効率的な製造工程だった。大量に車を組み立て、またそれを買い取る人も増えていく。1918年、ウィスコンシンの田舎町にも、マイカーブームが来ていた。Rascalでは、姉のセオがスタッツベアキャットに乗って登場した。父ウィラードの愛車はオールズモビルで、その前はモデルTに乗っていた。アイリッシュピクニックでは、フォード、ホワイトスチーマー、パッカードが見られ、ドニィブルックとレースしたサーマンの車はモデルTだった。このような車の流行は、それまで活躍していた馬たちを道の外に追い出してしまうものだった。馬具屋のシャドウィクが乱暴に道を走り回る車をののしっていた。「人の仕事を奪いやがって」(“ruin a man’s business”)(109)時代に取り残されそうな1人の凄腕職人の悲しい姿が描かれている。彼は店の中で文句を言うしかなかった。人が馬よりも車を選ぶ理由はいくつも挙げられる。速く遠くまで走れて時間の節約ができる。運転が簡単で、世話も楽。餌代よりもガソリン代の方が安い。それに、1914年に始まった戦争が馬をヨーロッパへ連れて行ってしまった。その穴を埋めるように車が市民の生活に入ってきた。戦地での役目を終えても、アメリカに馬たちの活躍の場はもう残されていなかったのだ。
 文明によって衰退の運命を辿らされたのは馬だけではない。インディアンたちは追い詰められ、野生動物たちも窮地に立たされている。スターリングは彼らの悲しみも見ていた。ウィラードがインディアンの研究者でもあったため、スターリングはRascalの中で何度か彼らの想いを感じている。ブラックホークの洞窟で、スターリングは謝っているようだった。追い詰める側の人間になっていたと感じたからだ。ウィラードとバートがインディアンについて熱く語り合っている時には、部族のダンスや保護地区へ望みなく移動していく姿を思い浮かべていた。開拓時代、移民たちはインディアンたちを追い払った。また、凶暴な大型動物も倒していった。農業が盛んになれば、その他の動物たちも害獣として駆除し、毛皮や肉のために狩猟のターゲットにもした。時が経つとゲームとして楽しむだけに殺すようにもなっていた。その結果、ジャガーやオオカミは姿を消し、バルバドスアライグマは絶滅してしまった。鳥類学者カムリンが残した知識として、スターリングは父と叔父から2種類の鳥の話を聞かされる。ホイッパーウィルとリョコウバトだ。ホイッパーウィルはアメリカでよく知られた鳥で、姿を見るのは難しいが絶滅危惧種ではない。しかし、数は減ってきている。彼らの生息地は開けた低木層の森で、まさに手付かずのカムリン農場は打って付けなのだが、こうした場所が郊外や農地になってしまい、無くなってきているのだ。更に、地面に座って休むことがある彼らは車に撥ねられてしまうケースもある。スターリングを感動させた彼らの歌声は、このまま放っておけば消えてしまうのではないだろうか。絶滅させてはいけない。スターリングが思った「ホイッパーウィルの声を聞くには、ぼくが生まれてくるのは遅すぎたみたいだ」(“I had been born too late, it seemed, even to hear a whippoorwill.”)(55)という考えを、将来の子供たちに抱かせたくはない。リョコウバトのように手遅れにさせてはならないのだ。かつて殺しきれないほど飛んでいたリョコウバトだったが、ハンターたちによって18999月野生では獲り尽され、191491日動物園の中で最後の1羽が死んだ。フレッドは自作の剥製を前に、自慢げにスターリングに語っていた。彼は動物を殺すのが好きだった。スターリングとは真逆の考えの持ち主である。リリアンがスターリングを気遣って、夫に言葉をかけるが、その時の雰囲気は重苦しかった。
 大量に物事を変え、影響を与えるアメリカの脅威が記されている。発展が時に少数派を傷つける残酷さも、Rascalの中で隠すことなく語られていた。

子供の楽しみ
 読者にしてみると、過去から厳しい教訓を突きつけられているようだが、Rascalはそれだけではないから良い。今はもうなくなってしまったが、昔は家から遠くないところで馬が飼われていたなと、自分の経験を振り返り、大人の読者は懐かしむことができる。スターリングの生活が暖かい思い出を呼び起こしてくれるのだ。
 学校から帰った後、友達と外に遊びに行くなど、小学生なら当たり前で誰もが夢中で楽しんでいた。公園に行くと色んなごっこ遊びをし、勝ったり負けたり、泣いたり笑ったりして忙しかった。スラミーのような強がりな問題児が1学年に1人はいて、その子が先生に怒られているのを遠くから見ていたりした。そんなこともあったと、Rascalを読みながらクスクスと思い出し笑いをしてしまう。ペットとの生活もかなりの人が経験することだ。餌をあげてはもっともっととせがまれて困ったり、いつの間にかこっそり目の届かないところに行かれてしまっていたり。言葉が通じているのかわからない彼らに、誰にも打ち明けられない悩みや秘密を聞いてもらい、妙に強い信頼を寄せてみたり。家族の中で誰よりも早く別れの時が来たり。スターリングと私たちの思い出は重なる部分が多い。家族旅行では非日常を体験し、ワクワクする。お祭りや遊園地では、やけにお金の使い方を熱心に考えた。クリスマスには家族が集まって、おいしいご馳走を食べ、プレゼントを開けては兄弟で中身についての口論をしたり。キラキラした記憶がよみがえってくる。そしてスターリングのように、自分も両親からたくさんのことを教えてもらっていたことに気づかされる。身近にいる鳥や花の話、昔の話などを聞かせてもらっていた。頭の隅に残っていたものが、Rascalをきっかけに心地よく中心に戻ってくるような感覚を味わえる。日本で放映されたアニメ『あらいぐまラスカル』の遠藤政治監督は制作にあたり、「そうだ、自分を描けばいいんだ」と思ったそうだ(「制作スタッフ」 13)。他のスタッフも、ブレールスフォード・ジャンクションのモデルとなっているエジャトンのロケに行ったときに自身の故郷を思い出し、『あらいぐまラスカル』の世界を無理なく描き出すことができた。スターリングの生活は一見特別なもののように見えるが、実は読者11人の中にもある普通の生活でもあったのだ。その生活は、大人たちが知る古き良き時代のことだった。

 1918年という過去を舞台にしたことで、Rascalはアメリカの歴史や文化を知れるテキストとなり、大人たちが読めばノスタルジーを感じさせる作品になっている。物語作品に留まらないところが2つ目の魅力だ。

3. 著者の表現力
 1冊の本が名作になるには、優れた書き手が必要となる。著者としてのスターリング・ノースは表現力に長けていた。それはRascalを読めばわかることだ。色鮮やかな風景、ラスカルの一挙一動、スターリング少年の感情が読者の頭の中で鮮明に思い描かれる。身構えずとも、アルバムを開くように心地よいペースでページをめくることができるのは、スターリングが見たままを書いてくれているからだ。何故スターリングにここまでの技量が備わっていたのかを知るには、彼の家族とキャリアを知らなければならい。Rascal3つ目の魅力、作家スターリング・ノースの表現力を最後に注目していく。

家系
 スターリングの文学の基礎にある彼のセンスは、先祖たちから受け継いだものだった。そしてスターリングが直接受けた刺激も、彼に影響を与えている。
 スターリングの曾祖父トーマス・ノースは大変な読書家で、1847年にイギリスからアメリカへ移住してきた際に、大量の本を持ってきていた。また、母方の叔父にあたるジャスタス・ヘンリー・ネルソンはスターリングに本作りを見せた。ジャスタスの名はRascalの中でも登場する。ラスカルが寝転んでいるジャガーの絨毯について説明されているページ(“he was lying on a large jaguar-skin rug which Uncle Justus had sent us from Para, Brazil”)(48)で出てくるのだ。彼はアマゾンで初めてプロテスタントの教会を建てた功績を持つ人物で、1917年ジャスタスの父ジェームズの100年目のバースデーにて、兄弟たちと共に両親についてと開拓時代の農家の生活を書いた伝記を制作した。本が好きであること、本を自ら書くことは、スターリング・ノースの家系に脈々と引き継がれている。しかしそれらは本能的な部分の話であり、知識という別の物もまた彼らは子孫に伝え残している。曾祖父トーマスと祖父トーマス・ジュニアは父ウィラードに開拓時代の話を聞かせ、ウィラードはそれを息子のスターリングに教えていた。もちろんスターリングはウィラードの子供時代のことも知っている。記憶力にも恵まれたスターリングは、時代を超えた知識を吸収していたのだ。
 家系とは離れるが、カムリンも重要人物だ。父の語る、動植物の見分け方や名称を教えてくれたこの旧友との思い出は、スターリングの心を捉えた。スターリングにとってカムリンは憧れの存在だった。カムリンを尊敬していることは明らかで、Rascalでカムリンとは何者かを詳しく書き、The Wolflingではカムリンをそのまま登場人物にしている。彼の知識はウィラードを通してスターリングに渡された。Rascalで使われている動物の名前は100種以上、植物は60種以上にもなる。それらは時に比喩として使われ、鳥は鳴き声までも書き出されている。自然に関する知識は、読者にその姿と音をはっきりと伝えてくれる。
 両親から受けた教育もスターリングに影響している。母エリザベスは大学を首席で卒業するほど秀才な人だった。彼女の専門は生物学、言語学、歴史である。これら3つはスターリングの書いた本のジャンルと一致する。スターリングは優しく物事を教えてくれる母との時間をいつまでも大切にしていた。父ウィラードも大学を出ている。彼は薬学と考古学に詳しい。両親が共によい教育を受けていたため、文学好きになるように育てようと、エリザベスとウィラードは子供たちに読書や詩の創作をさせたていた。それでノース家の4兄弟は、詩の暗唱や自作の詩を家族の前で披露し、ちょっとした競争をするようになった。年の離れた姉たちの作る詩は児童文学の雑誌に掲載され、受賞もしていた。それを見て、スターリングも負けずにより良い詩を作ろうと励み続けた。1914年、8歳になったスターリングが書いた“A Song of Summer”という詩が、初めて雑誌に掲載された。とても美しい詩で、夏の陽気から終わる物悲しさまでを漂わせている。その年の春、エリザベスは肺炎で亡くなっていた。大切な人を失った後にやってきた季節を詩っているのだ。そしてここからスターリングは文学の才能を開花させていく。
 スターリングの家系は本を愛する人たちが多く、作家として成功した者が、姉ジェシカ、スターリング、娘アリエル、と3人もいる。この一家は、物語を紡ぐ力を生まれた時から秘めている人々の集まりだと言える。

仕事
 受け継がれたものを才能と呼ぶのなら、才能は初めから持っているものだ。そして技術は後から身につけるもの。スターリングは、仕事を通して段階的に自分なりの書き方を確立していった。
 幼い頃から文学に親しんでいるスターリングだが、初めから作家志望だったわけではない。体を動かすことが好きだった彼は、中学でアメフトをやっていた。将来はスポーツ選手になってやろうとまで思っていた。しかし、15歳の時にポリオにかかってしまう。この病によってスターリングは歩けなくなり、スポーツへの夢は諦めざるを得なかった。それでも普通に歩けるようになろうと、無理やり湖を泳いで回復させてやろうと試みたりした。
 そんな負けず嫌いのスターリングが新しい道を切り開けたきっかけは、高校の国語教師マーガレット・スタッフォードとの出会いだった。ウォーレン先生と並び、スタッフォード先生の名前もRascalの中で書かれている(“Miss Stafford made English a delight. And Miss Whalen loved biology as my mother had loved it.”)(134)。素晴らしい先生として紹介されているのだ。彼女は生徒たちに「自分たちの周囲の生き物をよく観察して、明瞭に、そして簡潔に書くように」(ちば 『あいたい』 73)と指導していた。スタッフォード先生のおかげで、スターリングは書くことの楽しさを学ぶことができた。
 大学進学後シカゴに移ったスターリングは、学費を自分で稼ごうといくつかの仕事をした。足が不自由なため、主に事務作業をしていたが、詩や短編を売って稼いでもいた。学内で雑誌の編集やミュージカルの台本を書くなどの活動もしており、物を書く経験を積んでいった。19292月に初めて書いた本The Pedro Gorinoが出版される。
 本の成功で自信のついたスターリングは大学を中退し、同年6月、シカゴ・デイリー・ニュースの新聞記者になった。頼まれたらどんな記事でも書く、努力と才能を持ち合わせたこの若い記者は早々に出世していき、1932年、デイリー・ニュース社の文芸セクション編集長に任命される。新しい作家の発掘や本の書評を書くことが仕事の内容だった。そして2年後の1934年、Plowing on Sundayを出版した。Rascalと同じく、舞台はブレールスフォード・ジャンクション。本自体は売れたが、リアリティを求めすぎ、キャラクターが町の誰を書いたものなのかがはっきりわかってしまうため、エジャトンでの評判は悪かった。
 都会の暮らしに息苦しくなったスターリングはPlowing on Sundayの売上金を使って、ミシガン州にある農場を買い、「アルファルファとオメガ」と名付けた。1940年、もっと大きな農場で動物を飼いたいということで、「アルファルファとオメガ」を売り、イリノイ州で別の農場を買った。それから3年後にニューヨーク・ポスト誌から文芸部編集長のオファーが来たため、ニュージャージー州モリスタウンへ妻と2人の子供を連れて引っ越した。そこでも家畜を飼っていたが、第二次世界大戦が始まり、農場の仕事を手伝ってくれる人手が無かった。家族総出で動物の世話をし、仕事もこなしていたスターリングは多忙な日々を送っていた。
 1957年、子供たちが大学を卒業した後、スターリングは雑誌の仕事を辞め、ノース・スターブックスを立ち上げる。そして伝記シリーズを次々に出版していった。スターリングは「アメリカの歴史を語るにはどういう方法が優れているか」を友人と話していたという。それで、「だれかの人生のストーリーを通して語るのがベストだ」(ちば 『湖で』 102)という結論に至った。これこそ、スターリング・ノースの本の書き方だ。伝記を書くためには膨大な資料が必要となる。事実を読者に伝えなければならないからだ。新聞記者としてのキャリアがここで活かされる。スターリングは現地取材を徹底してやり、リンカーン、ジョージ・ワシントン、エジソン、ソロー、マーク・トウェイン等の伝記を書いた。
 仕事が落ち着くと、家の近くにいる野生動物の存在に気付くようになった。外から聞こえてくる「クルルルルル」というアライグマの声が、スターリングの古い友人ラスカルを思い出させる。しばらくして、1962年、99歳でウィラードが息を引き取った。これらの出来事が、スターリングに大事な思い出を1冊の本に書き起こす衝動を与えた。1963年、Rascalが出版されると、たちまち大人気となった。執筆中、スターリングはRascalの物語を子供たちへのメッセージとして考えていたが、喜んで読んだのは大人たちの方だった。Plowing on Sundayを酷評していたエジャトンの人々が、すっかりRascalのファンになっていたのだ。懐かしい日々がそこに書き残されており、彼らは感動した。ジェシカは家族のことが書かれていることを良く思っていなかったが、スターリングの活躍には満足していた。新聞記者や伝記作家の作業が組み込まれ、スターリング・ノースの中で最高傑作となったRascalは、彼の表現力の結晶だ。スターリングの見ていた時代を実際に経験している人からすると、使っていた物や起きた事件の名前を見てすぐにそれを思い出すことができる。彼らの生活を知らない人が読んでも、その事細かに書かれた情報によって理解することができる。数値がその一例だ。カヌーの大きさ、野菜の収穫量、釣った魚の重さ、ラスカルの増えていく体重。充実した説明により、私たちはスターリングが過ごした1918年を余すところなく知れるのだ。
 Rascal18か国語に翻訳され、世界中の人々に読まれていった。ファンレターがあちこちから届き、ラスカルやアライグマについての質問が多く寄せられ、それらに答えるべくスターリングはRaccoons Are the Brightest Peopleを出版した。この本でスターリングは、いくつかのケースを用いて、人と動物の共存の仕方を示している。作家というよりも、記者としての一面が見られる1冊だ。
 その後、スターリングの体調が崩れる。心臓発作や脳卒中で執筆活動が思うように進まなくなる。そんな中、渾身の力を振り絞って書き上げたThe Wolflingが最後の作品となった。ウィラードとカムリンの思い出と、アライグマと同じくらい好きな動物オオカミを題材にした、彼の中で絶対に書かなければならない大切な物語だ。世間からの評価は良かった。スターリング・ノースは立派なベストセラー作家となっていた。そして1973年、クレストウッド養護院でアライグマたちの元気な姿を見ながら治療するも、197412月スターリングは68歳でこの世を去った。
 彼が亡くなってもRascalは愛され続けた。スターリングの故郷エジャトンでは、地元の人たちがかつてのノースの家を博物館にして、1997年から公開している。スターリングや彼の家族の紹介をし、Rascalの世界を再現しているのだ。スターリング・ノースは紛れもなくエジャトンの誇りだ。そして世界中から多大な支持を得ている。これは彼が及ぼした影響と結果である。

 スターリング・ノースは、想像力をはたらかせるのは読者の役目であり、適格にイメージを伝えるのが著者の役目であるとするタイプの作家だった。彼が本を書く目的はRascalでエリザベスとリリアンの口を借りて明らかにされている。「この時を永遠に残していける」(“You could keep it just like this forever.”)(180)スターリングは、父が自分に知識を先祖から受け渡してくれたように、自らも蓄えた知識も上乗せして本という形で言葉に残し、知識を読者へ届けた。それは忘れられることのない方法だった。読書が好きなスターリングは、本からたくさんの言葉を知った。両親から自然に関することや名前を教えてもらった。記憶力の良いスターリングはそれらを覚え、生まれ持った才能を活かして、詩を作りながら言葉を選ぶ力を身につけた。そして記者となり、物事を観察し、情報を集め、わかりやすく文章にまとめる数々の経験を積んだ。伝記を書く仕事では歴史を伝え、RascalThe Wolfling2作で自分の中だけでは留めておけない、消し去られたくない出来事を伝えた。詳細に物語を書くことで、スターリングは人々に知ってもらいたいことを見せている。Rascalが他の作品と一味違うのはこのためだ。

終わりに
 読む人の心を捉えるユーモアたっぷりのキャラクターたちが展開していくストーリー、動物だけでなく人間模様や時代背景をも美しく再現したRascalは、スターリング・ノースが残した傑作だ。Rascal出版から50年経った今、地元アメリカでは3世代に渡りこの物語を愛読しているらしい。初版で楽しんだ方が自分の子供に読んで聞かせる。学校でも授業で使われることがあるようで、そういったところでこの話を学ぶ人たちもいる。Rascalを気に入った読者たちは子供にこの小説をプレゼントしたいと考える人が多い。たとえ単語が難しくて小学校に上がる前の子には読みにくくとも、スターリングとラスカルのお話は子供たちを喜ばせている。スターリングの残しておきたかった古き良き時代の思い出は見事に多くの人の心に伝えられている。『あらいぐまラスカル』もスターリングの願いに一役買っていた。ラスカルのかわいさばかりに目を奪われて、そのことを忘れがちだが、アニメの存在意義はRascalの素晴らしさを伝えることだ。そのため、このアニメはロケを行い、ドラマの脚本を書いている作家を用意するというような特例の作り方がされている。原作と時代設定にずれがあり、良さを伝えきれていないところもある。なので、アニメを見ただけでスターリングの物語を悪く言ってもらいたくはない。アニメの評判を見ると、残念ながら「とても悪い」と思っている割合が少なくない。是非ともRascalを読んでから考えを改めてもらいたい。そして、Rascalをよく知らずにラスカルを好きだと言っている人たちも、まずは原作を読んでほしい。それから日本でのアライグマ野生化問題の責任をあちこちになすり付ければいい。ただRascalはそのことに関し無実であると私は言いたい。紛れもなくRascalはアメリカ文学また動物物語の代表作なのだから、この作品を誤解している人が悪いのだ。とにかくRascalをちゃんと知ってもらいたい。


引用文献一覧
North, Sterling. Rascal. Illustrated by Schoenherr. New York. Puffin Books. 2004.
---The Pedro Gorino: The Adventures of a Negro Sea-Captain in Africa (autobiography of H. Dean). Houghton. 1929. published in      England as Umbala, Harrap. 1929.
---Plowing on Sunday. Reilly & Lee. 1934.
---Raccoons Are the Brightest People. Dutton. 1966. Published in England as The Raccoons of My Life. Hodder & Stoughton. 1967.
---The Wolfling: A Documentary Novel of the Eighteen-Seventies. illustrated by Schoenherr. Dutton. 1969.
Seton, Ernest T. “Way-Atcha, The Coon-Raccoon of Kilder Creek.” Wild Animal Ways. North Carolina. Yesterday’s Classics. 2010.

「制作スタッフに聞くラスカルが生まれるまで」『MOE33.420113月):13
ちばかおり『ラスカルにあいたい』(求龍堂、2007):73
ちばかおり『「ラスカル」の湖で~スターリング・ノース~』名作を生んだ作家の伝記10(文溪堂、2010):102

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